心底尊敬する中村哲先生。
昨日こんな記事が出ていました。
中村先生は長年、パキスタンやアフガニスタンで医療活動をしていました。
しかし病人を治療するには限界があり、アフガニスタンには人々が病気にならないようにするための生活改善が必要。
そのためには用水路で荒れ地に水を引くことが大切だと訴え、独学で土木技術の勉強をして自ら重機に乗り、用水路を建設して国民の生活を激変させました。
その生き方が「ウクライナ戦争後の食料危機のなかで、日本の支援の在り方の具体的な実践につながる」と指摘、再注目されています。
出典:著書「希望の一滴」より
〈目次〉
中村哲先生とはどんな人?
中村先生は1946年福岡県生まれ。 九州大学医学部を卒業。
日本国内の病院勤務を経て、1984年にパキスタン北西辺境州のペシャワールにあるミッション病院ハンセン病棟に赴任。38歳くらいの時ですよね。
国際NGO「ペシャワール会」現地代表として活躍します。
以来約20年にわたり、パキスタン人やアフガニスタン難民のハンセン病治療をしました。
その傍ら難民キャンプでアフガン難民の一般診療に携わります。
2000年にアフガニスタンで大干ばつが発生。
それ以降は灌漑用水路の建設や井戸の掘削にも尽力しました。
中村哲先生の功績
医師としても優秀な中村哲先生。
中村先生の診療所には患者が殺到したと言います。
しかし干ばつによる食料不足に苦しむ多くのアフガニスタンの人たちを目の当たりにした中村先生は
「ほとんどの病気は十分な食べ物と清潔な飲料水があればかからない。 飢えや渇きというのは薬では治せない」
と考え、井戸掘りを始めました。
その後井戸を数百本も掘削。
2003年からは用水路の整備や農地の再生にも取り組みました。
これまでにかんがいが行われた土地は、およそ1万6500ヘクタールにも及びます。
この用水路のおかげで約60万人が潤ったといいます。
出典:「ペシャワール会」ホームページより
現地の人々に愛された哲先生
体の病気を治してくれるだけでなく、生活を変えてくれた恩人。
干ばつの地に水が安定的に供給できれば、
・緑が生い茂り、
・畑で自給自足が出来、
・飲料水も確保できる
人間が生きていくためには絶対的に必要な水を引いてくれた大切な人です。
アフガニスタンではカカ・ムラト(کاکا مراد、「ナカムラのおじさん」)、カカムラッドと呼ばれていました。
現地の人達から、いかに親しまれ愛されていたかがわかります。
中村哲先生の死
中村哲先生は2019年12月4日、現地で銃撃されました。
当局者らによると、中村先生はこの日、灌漑(かんがい)用水事業の進行を確認するためアフガニスタン東部ジャララバードを車で移動していたところ銃撃を受けたといいます。
アフガニスタンで長年、現地住民の生活環境の改善に尽くした中村先生。
まだ犯人は捕まっていないようで、その詳しい動機はわかっていません。
カカムラッドと知らずに銃撃したのか。
もし知っていて狙ったとすれば、偉大な影響力を利用して何かを訴えるつもりだったのか。
国にとって無くてはならない国宝級の最重要人物を殺害するなど、愚の骨頂です。
アフガニスタンやパキスタンにとっての損失は計り知れません。
出典:NHK政治マガジンより
座右の銘は「一隅を照らす」
中村先生が好んでいた言葉は
一隅(いちぐう)を照らす
でした。天台宗の開祖・最澄の言葉です。
一隅は「片すみ」。
すみっこで、自分のいる場所。
どこかの片すみでも、今の自分にできることを一生懸命やる。
たとえ小さな事に見えても、一つひとつ真面目に取り組む。
その小さな灯りが積み重なることで世の中が明るくなっていくという意味です。
正に中村先生の生き方そのもの。
現在も哲先生の意思を継いだペシャワール会の皆さんがアフガ二スタンを照らし続けています。
ぜひ教科書に載せてほしいです。
今こそ考えたい「国葬」とは
中村哲先生、カカムラッドの悲報を聞いた人々は皆
嘆き悲しみ
中村先生に感謝と祈りを捧げたといいます。
銃弾に倒れた3日後の12月7日、カブールの空港で追悼式典が行われました。
ご遺体は飛行機で日本に搬送。
追悼式典ではアシュラフ・ガニー大統領が自ら棺を担いでいます。
これは国葬といえるのではないでしょうか?
誰もが納得する心のこもったアフガニスタンの国葬だと思います。
日本は形にこだわり過ぎる気がする。
数億円という税金を投じ、国民の半数が反対する国葬に何の意味があるのか、疑問でしかありません。
最後まで読んでいただきありがとうございました。