(写真は全て私が持っているCDアルバムに掲載されているものです。)
5月2日は元X-JAPANのギタリスト、hideさんの23回忌。
心からご冥福をお祈りします。
〈目次〉
誰よりもファンを想い、優しかったhideさん
22年前、hideさんは突然他界してしまいました。
X-JAPANのYoshikiさんがツイッターやインスタにコメントを寄せています。
毎年イベントが行なわれ、お墓参りをするファンが多かったのですが、今年は自粛しようという発信です。
22年前の今日、HIDEが他界した。
— Yoshiki (@YoshikiOfficial) 2020年5月2日
今でも毎日のようにHIDEのことを想う。
今夜 @YOSHIKICHANNELで #HIDE がXに加入した経緯や思い出を語ります
今年はお墓に行くことを自粛しよう。
【今夜19時~HIDE MEMORIAL】 #YOSHIKI LAからセルフ配信
Japan→https://t.co/ZlPX4jdPQWhttps://t.co/z8nWLEgoMe pic.twitter.com/hEqvbLuU7I
1997年12月31日、「THE LAST LIVE」を最後にX JAPANは解散が解散してしまいました。ボーカルのTOSHIさんが脱退したためです。
しかし驚いたのはその翌日の1998年1月1日、新聞紙上に「hide with Spread Beaver」として全面広告が掲載されました。1月28日にシングル「ROCKET DIVE」を発売。その後もヒット曲を連発。X JAPANのファンが路頭に迷ってしまうと心配したhideさんの配慮だったようです。
熱狂的なファンが多く、後追い自殺をする人が社会問題になったほど。
今でもファンの心をつかんで離さないhideさんとはどんな人だったのでしょうか。
周囲にどう思われてもファンのために動いていたhideさんの魅力
hideさんはギターのテクニックが超一流なのはもちろん、人間的な魅力にも溢れていました。
当時ミュージシャンはテレビに出演しないことが多かったのですが、「地方でライヴに来られないファンの為に」と積極的に出演。
ソロ活動の関連グッズは「チケット代は安くないのに、更に高いお金を使わせてはいけない」とファンに気遣い、全て5,000円以下だったそうです。
難病を患ったファンの少女との交流もありました。少女の支援団体から「hideに会いたい」という願いを受け、Xの東京ドームライブで対面。ライブの打ち上げにも招待します。
その後少女は治療で骨髄移植手術を受けますが、拒絶反応のため危篤状態になってしまいます。少女の母親から「hideさんの声だけでも」と電話を受けた時、その日の予定を全てキャンセルして病院へ駆けつけ励まし続けたといいます。その晩から徐々に病状は回復。数ヵ月後には退院することもできました。まさに奇跡です。
骨髄バンクへの登録と所属事務所への怒り
当時の日本では骨髄バンクへの登録者数が少なく、手術を受けられない人がたくさんいました。
hideさんはあくまで個人的に「できることをするだけ」と骨髄バンクに登録。しかしこの時、所属事務所が勝手に記者会見をセッティングしてしまいます。
何も知らされていなかったhideさんが「これじゃあ売名行為じゃねえか!」と激怒。もし慈善活動をひけらかすようにマスコミが書いてしまうと、女の子が傷つくかもしれないという配慮です。当時マネージャーだった弟の松本裕士さんが「兄弟 追憶のhide」 (講談社文庫)で述懐しています。
しかし本人の意思とは無関係に少女との交流が日本中に報道され、骨髄バンクの存在を全国に知らしめることとなりました。現在までドナー登録は認知され、登録者数は529,965人(2020年3月の速報値)まで増えています。hideさんの思いやりが医療に大きく貢献しています。
本当にすばらしい人だと思います。
hideさんのオフィシャルモバイルファンクラブ
ゴールデンウィークは断捨離します!
なかなか物を捨てられないのが私の悪いところ。
「まだ後で使えるかもしれない」という執着を捨て、バシバシ捨てたいと思います。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。